2025年3月26日:旅のベテランサポーター【齊藤洋司のTopics】
「四国お遍路」 第6章(最終回)② (25.3.26〜4.1)[2025/6/3up]
(第6日目)天気 晴れ蒸し暑い
朝4時に目が覚める。軽いストレッチ等をして時間をつぶす。6時に座禅。丸い座布団を尻にしいて瞑想。一切の解説は無し、無言の行。その後2階に上がり、僧侶のやる通りに、お経をあげる。朝食は昨晩と同じ内容。7時に出立。一気に鬼無駅に向かう。鬼無駅近くで自販機を捜すが見つからず・・・。そしたら道路向こうに、素敵な喫茶店。パン屋と喫茶でモーニングあり、美味しくゆっくり休めた。その後、足を進めたコンビニで道を聞く。店員さんが親切に教えてくれた。
83番一宮寺を打ち、天然温泉へ。ここは宿泊もできるので、湯につかりながら、明日の行動を考えていた。
朝、きた「無理せず、ゆっくり休みながら・・・」のメールを反芻していた。明日は雨の予報もある。今まですべて晴れだったが・・・。高松市内をすべて歩くのでは時間が・・・。86番志度寺までは距離がある。遅くなると宿には言ってあるが「ここは、メールにもあった無理せず・・・」これに従おう。電車に乗って屋島まで行くことにした。
(歩数) 26,263歩
(距離) 17.6km
(第7日目)天気 曇り
夜に降った雨は、上がっていた。琴電潟元駅で降り84番屋島寺へ。
2度も登っているので楽に考えていたが、とんでもない。登っては休み、登っては休みながら、心臓がパクパクするのを持て余していた。それでも屋島寺を打ち85番八栗寺へ。前々回に裏道から下りているので、この道をたどることにした。しかし夜中に降った雨のせいか、道がぬかる上に、石を敷き詰めた山道は滑る。おそるおそる足を進めるが、滑りそうで怖い。やっと下って歩いていたら、地元の人に「この道ではないですよ」と、道を教えてもらった。そして八栗寺のケーブルの下まで来た。この近くに前回お世話になった「仁庵」がある。
2011年はじめて歩いた時、ここで休ませてもらった。その縁で2018年、今度で3回目のお世話になる。行ったら歓迎してくれて、小1時間ほどいて、話をさせてもらった。
その後、道路を下って86番志度寺へ向かった。
志度寺近辺は、大きな家が並び古い港町で、往時は大変賑やかだったようだ。
夕食は豪華な食事だった。今日は電車に乗って正解、それでなければ、こんなに早く宿に入れなかっただろう。
(歩数) 30,350歩
(距離) 20.3km
(第8日目)天気 晴れ
8時近くに宿を出て、87番長尾寺へ。途中休憩をはさみながら11時過ぎに着く。お参り納経を終え、御寺で売っていた「ぼた餅」を購入。境内で食べ、町内を散歩、喫茶か飯処を探す。花屋の店先で、おじさんに「落ち着ける場所」を聞く。
こぎれいなレストランで、家族連れで混んでいた。ここでゆっくりして宿に入る。疲れが出て眠くなる
(歩数) 17,172歩
(距離) 11.5km
(第9日目)天気 晴れ
朝7時、結願に向けて歩き出す。心がはやるが寒い日である。「お遍路サロン」に到着。ここで「お遍路大使」の免状を受けとる。
ここから女体山コースか、「昔の遍路道」かに分かれる。初回は「女体山」への山道だったが、疲れもあり無難なコース「お遍路」コースを行く。それでも途中キツイところもあり、足が進まない。天体望遠鏡館では、わざわざ呼びに来てお茶の接待を受けた。いよいよ88番大窪寺、13時近くに結願した。
2022年~3年がかりで、約10日間の区切り打ち6回。3度目の結願をした。私の誕生日。記念すべき日になった。
昨日、泊まった宿で一緒になった池袋の女性は、この近くの民宿に泊まるという。私は、ここが取れなかったため、志度に向かうことにした。コミニティバスに乗り、前々夜の宿に泊まることになっている。
(歩数) 28,894歩
(距離) 19.4km
(第10日目)天気 晴れ
朝7時24分発の電車で、1番霊山寺へ。結願の報告へ坂東駅で下車。
ここから美波町木岐駅へ。名田、勝瑞さんに会うため電車に乗った。木岐の海岸から上がった所に「俳句の小径」がある。卒塔婆のように立っている木に俳句が刻まれている。投書された句を選び、材木に句を記しているのである。その中に私の句もあり、その縁である。(詳しくは、黛まどか著「私の同行二人」新潮社刊P62~64)に述べられている。
木岐の駅では名田さんが待っていた。桜が今までの寒にぶつけるように、満開で咲いていた。
しばらくぶりの再会に、黛さんの訪問や、俳句の事、色々な話で盛り上がったが、今夜の予定は決めていない。16時51分徳島駅行の電車に乗り木岐を離れ、高松駅から夜行列車で帰郷した。
(後記)
思えば長い旅路だった。
60歳過ぎてから「四国お遍路」に興味を持った。総行程、1,400キロと言われる八十八ヶ所を歩けるだろうか。雨や風もある、毎日が穏やかな日ばかりではない。私は自分の体力に自信がなかった。その頃、私がボランティアをしていた旅行会社で「車椅子で行くお遍路」が企画された。2,008年~春秋2回、3年かけてのバリアフリー旅行である。その旅行では一人も脱落者がいなかったが。私は目の手術で、最後の参加が出来なかった。その穴を埋めるべき2011年一人で十ヵ寺を歩いて結願した。
その後、時々「お遍路」で歩いた人の話を聞くことが多かった。
私は2017年、電車バスも使ってもOKとして、歩くことにした。経験者のアドバイスを受け、歩きだしたのである。2回に分けて、2018年結願し高野山に報告に行った。
そして出来れば3度目も歩きたいと思っていた。しかしコロナが蔓延し、出られない。
2022年、今度は「弘法大師」「昔の人」が歩いた「遍路道」をすべて歩きで、八十八ヶ所を廻ろうと思った。その為に一気に歩くのは難しい。
「区切り打ち」で10日間、歩くことを信条とした。しかし膝痛になったりして計画通りに進まず2025年、私の誕生日に結願したのである。はじめの計画通り「全て歩き」は出来ませんでしたが、95%ぐらいは出来たのではないでしょうか。
「お遍路」では、色々のことがありました。高知では、泊まるところが見つからず右往左往したり、夕方につけず迎えに来てもらったり、足にマメが出来て難儀したり、車で通り過ぎてUターンしてのお接待もありました。JR志度駅近くのコンビニでは、カナダ人の女性にお接待を受けました。
親切に道を教えてくださった方々、アドバイスをくださった方々、老若男女様々な方にお世話になりました。「感謝」申し上げます。
「へんろみち保存協力会」の5,6センチの赤いマークに何度救われたことでしょう。
(昨今の遍路事情を述べましょう)
コロナ以後、古くからの遍路宿が廃業して、ゲストハウスと言われる素泊まりが多くなりました。商店、食べ物屋が減っています。コンビニはありますが、大きな道路沿いにしかありません。それでもコンビニが頼りです。バス、電車の本数が減っています。時刻表に気をつけて下さい。
「お遍路とは何でしょうか」
スタンプラリーと揶揄する人もいますが、歩いてみなければわかりません。歩いたからと言って「何かを得られる保証はありません」が、感じることがあることは確かです。
近年、世界各国からの一人遍路が増えています。私自身20ヵ国位の人達とお会いしました。誰もが歩いて「何かを感じる」このことが「お遍路病」と言われる要因ではないでしょうか。
(最後に)
私は2歳過ぎても、歩くことも喋ることもできませんでした。交通事故にも会い、幼少期、腺病質の躰は寝込むことが多くありました。
乳児で両親を失い、私を不憫がって実の孫よりも大事に育ててくれた「おばあちゃん」に感謝しかありません。「感謝しても感謝しきれない思いです」そのお陰で、八十路に入っても元気に歩いております。「ありがとう」
了