ユニバーサル総合研究所ロゴ

トピックスTopics

2024年3月26日:旅のベテランサポーター【齊藤洋司のTopics】
「お遍路日記」 第4章 愛媛県編 3/26~4/5 第2回目(24.4.23)[2024/3/26up]

(第6日目)
朝靄のなか出発、乳白色の世界が広がっている。古い町のせいか、商家が並んでいる旧道から、56号線を歩く。鳥居坂峠の登りはきつく、下りは長かった。峠を降りてきたら、軽トラを止めて、オレンジのお接待。ありがたくいただく。札掛けまで来たら、音楽フェステバルをやっていた。コロナで出来ず、何年振りとの事。コーラ飲みながら、おにぎりの昼食。いよいよ大洲の街へ。
大洲市(NHK朝ドラ「おはなはん」の舞台となった街)広い町で、外国人の観光客も多く、古い歴史物がある。外国人向けの一泊5万円の部屋もあるとのこと。今夜の宿「ときわ旅館」がなかなか見つからず、聞きながら15時過ぎに到着。ここの店主は「お遍路」の活動もしていて、アドバイスをもらう。夕飯のカレーライスを食べながら、富山から来た82歳の人とお話をする。お遍路は何回も来ているそうで、毎日5キロ以上歩いて、いるとの事。
   (歩数) 34,561歩
   (距離) 23,156m

 

【ここで一服】

  1. 歩き遍路では、金剛杖が必需です。昨今では、ウォキングポールで歩く人もいますが、お大師様と一緒に歩いている気持になります。宿に着いたら、即座に杖を洗い、部屋に持ち込みます。(忘れないため)
  2. 宿にはなるべく早い夕方に着きたいものです。その為、朝が早い出立が多く、朝食は6時半から7時頃です。
  3. 素泊まりの場合には、朝5時、6時の出発もありました。
  4. 天気予報は、晩に、朝に確認していました。
  5. 4月より納経時間が8時から17時に変わり、納経料も300円から5百円に値上がりしています。
  6. 「打つ」は昔、遍路たちが木製の木の札を柱などに打ち付けたことから言われるようになった。結願【けちがん】という。八十八ヶ所お参りができたこと。
  7. 民宿などでは、素泊まりが多くなって、ただ泊まるだけの感じになってきている。食事時、他の泊り客との情報交換や、お世話してくれる方との会話が、遍路の疲れを癒してくれるのだが・・・。料金も民宿と旅館との差が無くなってきている。
  8. ここで一句  「八十路坂 越えて越えての 花遍路」

 

(第7日目)
 朝5時に起きて、朝食のパンを食べて出発。富山の82歳の人は、既に出発していた。若主人に教えてもらい、56号線を内子めざしてひたすら歩く。トラック、自働車がバンバン走って通り過ぎていく。道路歩きは好きになれない。内子座(昔の古い舞台)の前で写真を撮り、以前見た和ロウソクの店を捜したが、わからず先へ進む。
途中あった青年が今日の泊まり「いかだや」を教えてくれた。小田川の渓谷沿いを歩いて山の奥へ奥へと。この辺りは林業で栄え、筏を作って川に流して生活していたとの事で「いかだや」の名前の由来になっている。「いかだや」は学校を改築した建物で、木をふんだんに使った高級料亭並みの造作である。村の人達が20年前に立ち上げ、囲炉裏もある凝った作りで、外国人が喜びそうな建物である。ドイツの人と一緒に食事。梅酒、鮎の塩焼き、竹筒の中に、てんぷら7品、こんにゃくの刺身、茶わん蒸し、野菜の煮物、卵入りうどん、デザートの苺。
  (歩数) 39,198歩
  (距離) 26,263m

 

(第8日目)
 朝6時半、朝食。ドイツ人と食べる。
「お遍路で、何処が良かったですか。6番安楽寺の燈明など・・・。お遍路日記第1章に記載」あとは出石寺(番外霊場)」
料理を作った人が美佐子さん(70歳ぐらい)、奇しくも亡姉と同じ名前で、今日は姉が出生した日であった。おぼつかないながらもドイツ人とスマホで会話をしている。世の中の変遷を思った。老化は磨かねばならない。
7時に出発。まもなく宮崎の男性と会う。野宿をしながら7回目だとか。感じの良い人で、40~50代。久万高原まで一緒に歩く。ヒワダ峠を越え大宝寺入口まで。大宝寺を打つまでは元気だったが民宿まで長く、5時半ごろやっと民宿に到着。すぐ風呂、食事、明日は雨の予報。
   (歩数) 43,622歩
   (距離) 29,227ⅿ

 

(第9日目) 天気 雨
 前回泊まった時は、道路沿いを歩いたので、荷物を預けて八丁坂に挑戦。雨の支度をして山道を歩く。道は水が出て、滝のように流れ慎重に登る。一か所、川になっていて、杖を支点にやっと渡る。岩屋寺まで誰とも会わず、帰り長い階段を下りながら、車椅子の人達と来た時には、どうやってこの階段を上ったのか、疑問が生じた。道路を歩いていると、前方にしっかりした足取りで歩いている人がいる。追いつこうと思うのだが、なかなか辿りつかない。やっと追いついたら、ときわ旅館で一緒になった富山の82歳の人である。民宿で荷物を受け取り、久万高原町へ。今夜の宿は近いと思っていたが、足が進まない。明日は、6ヵ寺回らねば、51番石手寺へは夕5時前には入らねば・・・。
  (歩数) 32,891歩
  (距離) 22,037ⅿ

 

(第10日目)
 今日は、最後の大勝負。三坂峠を越えて松山道後温泉まで、6ヵ寺をまわらねばならない。
朝5時、久万高原を立つ。雨が降っている。6時には止むだろうとのことで、雨具を着ずに出発。暗い中、道路の明かりを頼りに歩く。(ライトは携行しているのだが)6時過ぎても雨は止まず、仕方なく雨具の装備。三坂峠までが長い、やがてお遍路マークが。麓の坂本と、久万高原との昔道で旧土佐街道と言われ、多くの人が歩いた道である。よくも昔の人は、この山道を往来したものである。下り道だが、石が露出していて足場が悪い。足元を気にしながら、下って下ってようやく「坂本屋」の前に着く。昔はお遍路宿をやっていたが、今は空き家で地域の人達によって保護されている。久万高原と道後との休憩場所にもなっていた。昔の人の体力、忍耐力に、只々感服するばかりである。歩かなければならない道で、大変な事だったと思う。「生きる」という糧に立ち向かった先人の姿に、思いを馳せるばかりである。
「坂本屋」を出て歩きだしたら、左足の小指がジンジンと痛み出した。靴擦れを起こしての炎症で、大丈夫だろうと甘く見た失敗である。仕方なく血止めをし、46番浄瑠璃寺へ向かうが、まだ先である。しかし急がねば、51番までなんとしてでも・・・。陽も差してきたが、気はあせる。あせっていたのか48番西林寺の道では、左折するところ真すぐ歩いてしまい、ドライバーを停めて、道を尋ねた。それでも嫌な顔をせず、女性は親切に教えてくれた。「ありがとう」まだ3ヵ寺がある。地図上では道路際にあると思っていると、折れて奥のほうまで行かなければならない。気持はセクが、足が進まない。山道でない街場の道だが・・・。それでも51番石手寺まで懸命に足を運んだ。以前一度打っているので、見当はつくのだが、ずいぶん先である。納経所は5時で閉まる、ともかく駆け込んだ。10分前、お参りもせず納経を済ませ、ゆっくりと般若心経を唱えた。
今日の「お遍路」はここまでだが、泊まるところは2キロも先である。道後公園を過ぎ電話をするが、場所がわからない。道後公園では、ぼんぼりが下がり、出店も出て、桜祭りが開催され多くの人でにぎわっている。ようやく着いた時には6時半を回っていた。すぐに食事、温泉。
このホテルの設備には、圧倒されるばかりで、全てがバリアフリー対応で、部屋から大浴場まで、そのように設計されている。車椅子の人達が泊まれるように、配慮され、設備されている。それでいて廉価なのである。車椅子の旅行には、ぜひともお勧めしたい宿である。半年前から予約を受け付けるとの事で、道後温泉から引いている温泉で気持ちの休まるホテルである。
  (歩数) 54,297歩
  (距離) 36,379m

 

(第11日目)
 もう一泊とお願いしましたが、満員で仕方なしに松山からバスで大阪に出て、新幹線で帰京しました。
今回は脚も痛くならず、予定通り順調に歩けたのですが、帰ってからの疲労は激しく、余り無理できないと感じました。ただ歩けた事に感謝しかありません。
82歳の人が健脚で歩いていたし「90歳近い人も来ますよ」と旅館の人が言っていました。「私の遍路」はまだまだ続きます。

⁂ 17日の深夜、大きな地震が宿毛、宇和島、愛媛地方に起きました。私がつい先日歩いた地方で、被害が少ない事を祈るばかりです。

前へ | 次へ